陳家溝(Chen Jia Gou)へ |
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陳一族は、明朝の洪武7年(西暦1374年)に明朝の移民屯田政策によって、当時の族長である陳卜(Chen Bu)に率いられて山西省洪洞県大槐樹村に集結し、そこから河南省温県の常陽村という、黄河によってつくられた肥沃な土地に移住してきた。
この土地こそ、太極拳発祥の地として名高い、人々から『陳家溝(ちんかこう・Chen Jia Gou)』と呼ばれるようになった穏やかな村である。
それ以前に、陳氏一族が何処に居住していたかはよく分かっていないが、その昔、春秋から前漢王朝の頃、同じ河南省の淮陽に都を置く「陳」という国があったので、或いはその地域の出身かもしれない。
陳氏は古くから武藝に秀でた一族であり、紀元1600年頃、陳氏第九世の陳王廷 (ちんおうてい Chen Wang-ting) が、一族に伝わる様々な武藝のエッセンスを集大成して、陳氏独自の太極拳術を創り上げたと云われる。
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動乱期を生き抜いた実戦武術
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当時の中国は、明朝末期の大動乱期であり、明、清、反乱軍の三つ巴の戦乱が続く乱世であったが、陳王廷の活躍は『温県史』『懐慶府志』など、多くの史書にも見られ、その中のひとつである『陳氏家乗』によれば、
「陳王廷は山東(省)にありては名手(名人)と言われ、群匪(匪族)
千余人を掃蕩す。陳氏の拳術と刀槍の創始人にして、天下の豪傑なり」
と注記があり、このような戦乱の世を生き抜いた、優れた武将であったことが伺える。
陳氏はその後も、清末の動乱期に清朝最大の反乱活動を行なった太平天国の軍が温県に進撃した時に、第15世の族長である(ちんちゅうしん Chen Zong-shen)が、一族を動員して太平天国軍と戦い、見事に温県を防衛して中国諸省に勇名を轟かせた事などから、『温県に真の功夫あり』として、陳氏太極拳の実力がたちまち国中に知れ渡った。
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民族の十字路に発生した新拳術 |
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陳氏太極拳は、その発生についても様々な論議が交わされているが、大多数である漢民族以外に、実に50種類を超える民族が入り交じる多民族国家である中国は、多くの少数民族にそれぞれ独自の武術拳脈が存在しており、陳王廷をはじめ、それ以前の代々の陳氏の族長たちが、それら異民族の拳術をも参考に、太極学や導引吐納術、老荘思想などを反映した独自の拳を編み、一族の拳術として徐々に高度に完成させたであろう事は想像に難くない。
例えば、山西省洪洞県に現在も伝承され続けている「洪洞通背拳」は「壱百単八勢(108勢)長拳」を母拳とするが、かつて陳式拳術がまだ太極拳の骨格を充分に形成していない時期に陳家溝に存在した「壱百単八勢」と呼ばれた長拳の套路と、その多くが共通している。
また、心意拳の把式や同じ河南省の少林寺に伝わる心意拳套路にも、金剛搗碓、単鞭、高探馬、白鶴亮翅などの共通する技法が多く存在し、陳一族は何らかの形で、それらの拳術と深い交流を持っていたと考えられる。
さらに、陳王廷より50年ほど前の時代に「倭冦」(註:16世紀に中国の "海冦" と連合して中国沿岸地方を侵掠した日本の海賊)を平定したことで名高い戚継光将軍(1528〜87)が、兵の訓練に益するため、中国の武術を調査した成果を「紀効新書」という書に著わしているが、この書の第14巻「拳経捷要篇」に「拳経三十二勢」と呼ばれる、拳術古流および当時の諸流派の32種類の優れた技法を図解解説しているものがあり、その拳術と陳氏太極拳の技法や歌訣には非常に多くの共通点が見られ、後に武術考証家の唐豪氏は「陳氏はこの32勢を元に、黄庭経の呼吸法を取り入れて拳術を創造したのではないか」と述べている。
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ひとりの少年 |
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太極拳が人々に知られるようになったのは、楊氏太極拳の始祖として名高い楊露蝉(ようろぜん・Yang Lu-shan・禄禅、露禅とも書く。字は福魁。1799〜1872 清末)が北京で武名をあげてからの事である。
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