太極武藝館




太極拳はどう戦うのか第一回
太極武藝館 館長 円 山 洋 玄


闘うための武術・太極拳


 「武術」としての太極拳を想う時、その前途は非常に多難であると感じざるを得ない。
 本家中国の文革以来、国策によって三十年の歳月をかけて骨抜きにされた伝統武術が套路一辺倒の風潮を生み出し、太極拳と言えば、今日では多くの人が健康目的で優雅に表演される套路や、手を回して崩し合う推手の光景を思い浮かべてしまう。

 太極拳が武術から遠く離れて行った経緯については、すでにこのホームページに想うところを書いた。しかし、経緯と現状の説明だけでは太極拳を「武術」として追求する者の疑問は晴れないだろうし、オリンピック種目になろうがなるまいが、太極拳は今後増々、表演化、スポーツ化、健康体操化の一途を辿るに違いないことは、もはや疑う余地もない。

ある本には、「誰もが解決し得なかった中国武術の最大のテーマ」とは、


1

中国武術は実際に使えるのか?否か?

2

使えるとしたら、戦いの実際のスタイルとはどのようなものか?

3

どのようにすればそのスタイルを通して達人になれるのか?


 という三つである、と書かれていた。
 台湾在住の私の師兄弟たちにそのことを伝えると、異口同音に、
それは「日本人が誰も知り得なかった中国武術の最大の盲点」というべきではないのか、と言い、結局は真実を知る者が正しいことを地道に伝えていくしか方法は無い、と言った。

 太極拳は「徒手空拳では戦えない武術」として六百年の歳月を無為に過ごしてきたのではなく、実際は、同じ歳月を「闘うための武術」として二十世代に渡って研究に費やし、純粋に「闘争術」として進化し続けてきたのである。

 太極拳は、実際にはどのように戦うのか・・・?
 浅学を顧みず、私が学んできた太極拳の学習経験と多少の実戦経験をもとに、ごく一部の人を除いて、今まで誰も触れようとしなかったその問題について、許されている範囲で述べてみたいと思う。


「格闘技」とは何か


 太極拳は、高度に完成された闘争術のひとつである。
 また、太極拳は武術として現在も常に進化を続けており、この拳術が実戦的でないという認識は、単純に表演套路などでそれをイメージしてしまう人たちの誤解に過ぎない。
 よくその強さを他の「格闘技」と比べる人も居るが、そんなことをしてもどうにもならない。伝統武術と格闘技はその成立過程も目的も内容も、全てが異なっているからである。
 しかし、それを語るには、そもそも「格闘技」とは何か、ということから明らかにしなければならないと思う。

 「格闘技」とは、格闘に関る「技術」を指したものである。それは、闘争のための手段や技法を追求する競技、あるいは競技のための格闘技術、と言い換えることもできる。
 各々の格闘技には当然の事ながらその為の技術体系が存在し、それ故に、誰が学んでも努力次第で技術が向上して「強くなれる」とされ、事実、各々の格闘技門派ではそのようにアピールもしている。
 但し、ここでいう「強くなれる」というのは、あくまでもその格闘技会派が有する技術体系の中で、「競技」として強くなれる、と言っているのであり、伝統的な武術のように、「戦場にも通用する技術」を目指して長い年月をかけて発達し、その過程の中で高度に進化発展を繰り返しているもの、と言う意味ではない。

 例えば、あの「何でもあり」を意味する「バーリ・トゥード」は、男と男が一対一で戦っている時には、周りの人間は一切手出しをしてはならないという、ブラジルの風習の中で生まれたひとつの「ルール」の中で発展してきたものであるが、これはブラジルの路上や格闘競技試合では通用しても、戦場では通用しにくい「ルール」であることが誰にでも分かる。

 今日の格闘技とは、誰もが指摘するように、伝統武術の中身が近代になって細分化され、投げ技を中心としたもの、打撃を中心としたもの、関節技を中心にしたもの、などのルールに分かれたものである。つまり、伝統武術の技術体系の局面を取り出して近代スポーツの試合形式に再編成したものであることが分かり、こうして見ると格闘技は武術の競技版とも言える。

 しかし、現在では「格闘技」と「武術」は同じものではない。
 私のところには「格闘技」を長年修練し、試合でも好成績を残して支部長クラスの実力を身に付けながらも、太極拳という伝統武術をイチからやり直すために、それらをすべて捨てて格闘技から入門して来る者たちが少なからず存在する。
 そのような例は日本国内にとどまらず、イギリスで現在6人の全英チャンピオンを抱え、8か所の支部道場に数千人の生徒を有する、実力トップクラスの柔術道場主であり、ホイラー、ホイスのグレーシー兄弟とも親交のある、在英ブラジリアン柔術アカデミーの館長も、単身密かに当館に留学して来た。

 自慢しているわけではない。
 ただ、私たちには、彼らが何故そうまでして伝統武術である太極拳を学びたいのか、その必要性があるのか、ということに格闘技と武術の大きな相違が見えるような気がするのである。

 そして、彼らの入門希望の理由を総合すると、以下のようなものになる。

1)

現今の格闘技には、武術・闘争術としての深遠な原理を追求する姿勢が

殆ど見られず、武術的な学習体系が確立されていない。

2)

その、相応の約束事で整備された試合場の上で、互いに同じスタイルで戦う

ことを前提として発達してきたものの中身に対して、「武術」として疑問を
持ち、「高度な武術性」を学ぶことに限界を感じている。

3)

格闘技の「武術性」に限界を感じてからは、高度な武術の伝承を有し、

それを修得する学習システムを有する門派や道場を探し続けていた。 
しかし、それが武術として本物であるかどうかが常に問題であった。

4)

有名な伝統中国武術のマスターの多くは、門派独自の理論に基づく解説は

明解ではあったが、道場破りではなく、正規に入門をしても、本人が
実際に立合って証明することを好まず、運良く立合ってくれた場合も、
きちんとその武術的な強さを証明せず、有耶無耶にする人が多かった。



格闘技と武術の相違


 今日の格闘技は、誰もが「スポーツ」であると認めている。
しかし、かつて格闘技はスポーツではなかった。

 格闘技の根源は、狩猟や戦争から生まれた、生き抜くための闘争術であったはずである。そしてそれは、国家防衛のために兵士が身に付けなければならない闘争術や、一族や集団を守るための強力な護身術となっていった。
つまり格闘技は伝統武術のルーツと何ら変わる所は無いのである。

 格闘技が「スポーツ」となったのは、西洋を中心とする合理思想が支配する社会に於いてであった。ボクシングやレスリングの原型は、早くもギリシャ時代には支配者階級によって「競技」として整備され、古代オリンピックの種目にもなった。
 ところがローマ時代に入ると、それらは「競技」から「見世物」へと堕落し、歴史の表舞台から急速に姿を消して行く。これは支配階級が奴隷たちにそれらを競わせることを彼らの「娯楽」とした為である。
 その忌わしい娯楽の慣習は長く続けられ、新天地であるアメリカでも、まるでより強い闘犬を作るように優れた奴隷同士をかけ合わせ、血液的に優秀な戦士を作り出し、黒人奴隷のファイターたちを見世物として戦わせることさえ行われていた。
 そして、これらが再び「スポーツ」として登場したのは、ローマから二千年も後の、十九世紀に入ってからのことであった。

 スポーツという概念は、もともとキリスト教思想の産物だと思うが、ボクシングやレスリングは、そのお陰で他の一般のスポーツと変わらぬ時期にスポーツ競技としての地位を確立することが出来た。
 しかし、敢えてキリスト教を必要としない、優れた東洋思想が支配していた社会であった中国や日本、韓国では、スポーツの概念は無く、格闘技がスポーツとして誕生するためには非常に困難があった。

 ごく最近まで、格闘技は武術、つまり実際の闘争術や護身術であった。
 空手、柔道、中国武術などがスポーツ競技化されたのは、歴史から見ればつい最近の出来事であり、韓国のテコンドーなどは、ソウルオリンピックでの公開競技を経て、2000年のシドニー・オリンピックに正式採用されることでようやくスポーツとして市民権を得、世界中に「スポーツ」として認知されたのはご存じの通りである。
 それら武術格闘技のスポーツ化は、殴り合い、蹴り合い、投げ合い、傷つけ合うという、言わば極めて暴力的な行為を、現代という文明社会で合法的に成立させるための最後の手段であったとも言えよう。

 あらゆるスポーツがそうであるように、格闘技もまた、実践者が修得した技術を公開の場で競い合い、自己の力量を試す。それは同時に「娯楽」でもあり、言わばお互いにそれを楽しみ合うために、その必然として「ルール」が設定されるようになった。
 そして、それを眺める観客と共に、より楽しむ事が出来るようにその「ルール」がどんどん進化し、その結果、競技としての完成度も高められて来たのである。

 その図式は、サッカーでも、野球でも、プロレスでも、何ら変わることがない。
 つまり、近代格闘技は「娯楽」を目的として発達してきたもののひとつであり、かつての混沌とした時代に、自己の尊厳や財産、民族や家族同胞を守るために発達を遂げてきた「武術」とは、その中身が全く異なっていて然るべきであろう。

 また、格闘技はビジネスの好市場になるが故に、非常に近似した戦闘方法の中で戦い合うスタイルが確立されてきた。そして、プロレスやムエタイのように、それを「娯楽」とする素人の観客大衆に支持され、成長してきたのである。
 しかし、それ故に格闘技は「武術」としての高度さや、「文化」としての奥深さ、人間成長のための「道」を追求するための母体とは十全になり得ず、常に商業ベースに乗って、「興行人・スポンサー・ファイター・観客」という図式の中で急速に成長してきた。
 それは、「異種格闘技戦」や「誰が最強か」という類いのコピーでファンを魅了し、強烈なエンターテイメント性を付加し、次から次へと観衆が狂喜するようにルールを工夫し、スターを作り続けることで、現代社会でビジネスとして生き残ってきたのである。そこには「観る側の論理」がイニシアティブを取り、如何に観客に見せるか、ということによって成立する、スペクテイター・スポーツやマット・ショーと呼ばれる「現代格闘技」の姿が見える。


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